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修士論文概要「デュルケム=ダグラスの文化理論に関する一考察
―ガバナンスの人類学的・社会学的考察に向けて」

1. 本論考のねらい

本論考は、エミール・デュルケムの流れを汲む英国の文化人類学者メアリ・ダグラスの文化論を内在的かつ批判的に検討することによって、従来の「個人」中心のガバナンス論に一石を投じるとともに、「文化」中心のガバナンス論に向けての社会学的視座を据えるものである。

ここでメアリ・ダグラスを取り上げるのは、従来のいわゆる功利的合理主義を離れたガバナンスを構築するにあたり、その基盤をなす市民社会の構成的な知的、認識論的構造を把捉するために、その文化論が有益であると考えるからである。

2. 議論の前提 第T部「序論」

第T部「序論」は、本論考の導入部をなす三章から構成される。第1章では、メアリ・ダグラスの機能−構造理論に見られるデュルケム的前提を捉える為に、ネオ・デュルケミアンの旗手の一人であるスティエパン・メストロヴィッチの議論を中心に取り上げ、デュルケム理論の今日的意義を見ている。

ネオ・デュルケミアンは、20世紀の近代主義社会学に対して、集合性を否定し、非合理を病理として社会の周縁へ追いやることで、自らのレゾン・デートルである「社会」を見失っていると論難する。ここから、彼らはデュルケムの中に社会学再建の道を見出す。

ここで、ネオ・デュルケミアンは、デュルケムを単純な実証主義者と見なすことなく、(近代)合理性の限界を認識し伝統=非合理の問題を徹底的に追及した人物として捉え直す。とはいえ、ここから浮かび上がってくるのは単なる保守主義者としてのデュルケムではない。すなわち、彼らは合理性の否定ではなく合理/非合理図式の捉え返しを図るのである。そして、そのためには集合意識、集合表象の源泉である「社会」ないし「文化」が「個人」との関係を含め何であるのかをしっかりと見定める視座が必要となる。本論第U部以降ではこの視座を中心に据えて、社会ないし文化をゼマンティークとして捉えるメアリ・ダグラスの文化論を検討している。

本論の主題はあくまでガバナンス論にある。第2章では、英国のガバナンス論を概観することで、あらかじめその論点を整理している。

英国ガバナンス論の成立の背景には、70年代後半以降の分権化、独立行政法人化の流れがある。すなわち、こうした市場原理に基づく公共管理への動きの中で、ガバメントをもはや一つの組織体として扱うことが困難になり、さまざまなアクターによる自己組織的なネットワークの動態がガバナンスとして記述されているのである。

ここで「さまざまなアクター」の範疇をどのように設定するのかによってそのガバナンス論の性質も決まってくる。本論考では、便宜的に、英国ガバナンス論を「ネットワーク・ガバナンス論」と「ホーリスティック・ガバナンス論」の二つに分別して考察している。前者は、行政の限界を指摘し、市民社会の自律性を視野にいれたガバナンス論であり、後者は、あくまで行政内の調整様式としてのガバナンス論である。

前者の議論は、「消費主義化」「リスク社会化」にともなうウルリヒ・ベックのいうところの「個人化」を前提としている。ネットワーク・ガバナンス論は、プレ・モダン社会的な規範が近代化の中で弱化し、個人個人の手によって確実性を創出しなくならなければならない再帰的近代を支える制度枠組みとしてガバナンスの価値を見出している。

しかし、後章において明らかにされるように、こうした見方は確実性を創出する個人の文化的側面を欠いたものであり、制度のありようについての手続き論的議論も自由主義哲学と同様の陥穽に陥ったものである。

後者のホーリスティック・ガバナンス論は、前者のアンチ・テーゼとして生まれた側面があり、メアリ・ダグラスに始まる文化理論から導出されているガバナンス論である。これは、前者の議論を「個人主義」の文化的バイアスに囚われたものとして否定する。ホーリスティック・ガバナンス論が問題にするのは、専門化された行政そのものの限界ではなく、専門化された行政間の調整である。したがって、市民社会の自律性といった問題関心は見られない。その眼目は文化的バイアス間の技術的調停である。

ホーリスティック・ガバナンス論がネットワーク・ガバナンス論を個人主義に偏ったものとして批判するのは正しいが、逆にホーリスティック・ガバナンス論もまた「リスク社会化」にともなうガバニング様式の変容という視点を有していない点で誤っている。ここから、リスク社会化という状況を捉えた上でダグラスの文化論を市民社会に基づくガバナンス論に適用するという本論の課題が明らかになる。

(とりわけ第W部以降で)ダグラス文化論の展開を検討していく際には、以上の課題をふまえた論述を行っている。第3章では、ダグラスの小史とともにその道標を示している。

3. ダグラス文化理論の萌芽 第U部「ダグラス文化理論(1)」

第4章他で示しているように、ダグラスはアフリカ人類学者として、当時のフランス構造主義とは一線を画し、人びとの振る舞いが「構造」や「行為作用」の世界からは遠く隔たったものであることを見た。すなわち、身体に刻み込まれた無思考的な分類カテゴリー、シェーマが、背景的儀礼として立ち現れ、「わだち」(groove、文化基調)に沿った振る舞いをもたらすのである。これは従来の合理/非合理という図式を超えている。すなわち、ダグラスの言うところ、このシェーマに沿っている限り、人間は「合理的」なのである。

そしてダグラスは、こうしたシェーマを生み出す、人びとを取り囲む世界=社会=共同体に着目する。すなわち、人間の日常的営為は、この儀礼的達成、すなわち実体的な善の生成なのであり、その共同体が実体的に善と見なすものの理解によって導かれるものである(第5章)。ここにおいて精神と物質とは不可分の関係にある。

ダグラスはこうした人間の志向性が、いわゆる未開社会にのみ当てはまるものではないことを積極的に示そうとし、さらには文化的対話(比較宗教人類学)のためにこの「実体的な善」の比較枠組みを構築する作業に取り掛かる。前者は60年代以降のダグラスの一貫した取り組みであり、後者はグリッド・グループ分析から文化理論へと展開されている。

4. ダグラス文化理論と儀礼擁護の源泉 第V部「ダグラス文化理論(2)」

前者に関して、ダグラスの論述は当時の時代状況を抜きには語りえない。すなわち、世界的な規模での反儀礼主義の高まりであった。精神を物質から切り離すこうした試みは、とうていダグラスには受け入れることのできるものではなかった。社会秩序の問題に対するダグラスの回答は、儀礼の創出、すなわち主体的に世界=社会=共同体に飛び込むことにあった(第6章)。ただし、これをどのように達成するのか、つまりこの主体性の根拠がダグラスの論全体に見られる大きな問題である。

ダグラスによれば、この達成のためには「世界」を客観的に捉えるまなざしが必要である。この問題関心がダグラスがグリッド・グループ分析を生み出し、そして後の文化理論へと至る背景にある。

ダグラスの「文化理論」は、認知カテゴリーは社会から身体を通じて与えられるというデュルケム=モースの命題を展開させたものである。比較分析のために極端まで単純化すれば、内的差異(グリッド、縦軸)と外的境界(グループ、横軸)の二つの次元からダイアグラム化することで社会ないし文化を理念型・類型化することができるという。

ダイアグラムの右上(グリッド+、グループ+)は完全に秩序化された集合性をもたらすものであり(ヒエラルキー)、右下(グリッド−、グループ+)は単一の平等主義的集合性をもたらすものである(エンクレイブ、セクト主義)。左下(グリッド−、グループ−)では、集合的行動は弱く、個々人は自由に契約を結ぶ(個人主義)。すなわち合理的な経済人の典型である。左上(グリッド+、グループ−)では、個人は分離規則ないし経済的障壁によって抑圧されている(宿命論)。

これを鋳型として四つの文化は構成される。それぞれの文化は異なる機能に適したものになっている。複雑な調整が求められる場合には、右上のパタンを発展させ、それを正当化する価値、態度を深めていくのが理に適っている。個々人のイニシアティブが必要とされる場合には、左下のパタンとそれに付随する価値を発展させることが理に適っている。一致団結したプロテストが必要な場合には、個人の差異を抑え、平等主義的な集団に向かうのが理に適っている。社会はこれらの機能を達成するためにインプリシットなシェーマをその成員に付与するのである。

しかし、注意が必要である。ここまでの議論を見る限り、ダグラスの論は社会=文化決定論であるとみなされてもおかしくはない。そして、なぜ自身の論だけが「客観的」なのか。この問題は終章で考えているが、決定論に関しては、二つの文化次元を分別することが重要である(第7章)。すなわち、世界内存在としての存在論的根拠を与える「存在論(分類)としての文化」とその分類の上に織り成される「正統化としての文化」の二つの次元である。「正統化としての文化」は社会から離れある種の自律性を持って作用する(本論第11章)。ジェームズ・クリフォードが言うように文化もまた旅をするのである。また、この「正統化としての文化」の争いによって「存在論としての文化」の変転も生まれる。ここに動態的視点がもたらされる。ダグラスの論はこの二つの文化次元が明確でないことが、混乱をもたらす原因となっている。

5. 文化理論における人、文化、社会 第W部「ダグラス文化理論(3)」

第IV部では以上の知見をもとにしたダグラスの現代社会の分析を手がかりに、ガバナンスにおける人、文化、社会についての諸相を見ている。 今日の趨勢は「個人化」である。存在論としての個人主義文化が個人主義の「わだち」を掘っているのである。ダグラスにとって、この文化の制度化は社会を崩壊させるものであるために、そして、全体人間を見失わせるものであるために容認できないものである。

ダグラスの消費、経済論の眼目は、合理的選択理論のような行為を過度に偏重した概念構成に対する批判にある。行為者は、個人であるのと同時に共同体なのである(第8章)。経済人に基づき「討議の倫理」に訴え、実体的な善の概念に反論を唱え、代わりに善に関する手続き論的な概念を提示する自由主義哲学はこの点を見ることができないために、ホーリスティックなガバナンスの理論構築、実践には有益ではない。

以上の視点をもとにすると、ガバナンスのおける言説もまた個人の功利に帰すことはできない。行為者は、「正統化としての文化」の争いに参加しているのであり、その際にはインプリシットなカテゴリーの媒介を通して行動するのである。このことをダグラスはリスクが構成的概念であることを示すことで明らかにするとともに、現代のリスク言説もまた個人主義に偏重していることも見た(第9章)。そして、ダグラスが主張の核心は、専門家集団の保守的擁護というよりは、「正統化としての文化」の多元性を擁護することにあったのである。

第10章ではダグラスの宗教論を取り扱い、ここまでの議論を補完している。すなわち、現代の宗教論もまた個人主義の文化的バイアスに縛られていること、こうした知識人的態度が生活世界のリアリティを奪っていることを見ている。ダグラスがボッグ・アイリッシュの儀礼を擁護し、消費主義を擁護したことの真の理由はここにある。

すなわち、ダグラスの構成主義による解釈学の眼目は、客観的な意味の創出にあるのではなければ、脱構築によって基礎付けを一切排除しようというものでもなく、共同的世界内存在の存在論的基礎を明らかにしようというものだったのである。

6. 文化理論とガバナンス 第X部「ダグラス文化理論の射程」

第X部では、以上の視点をもとに、再びガバナンスの問題に立ち返っている。第11章では、ダグラスの視点から見出せるのが、文化構成主義的多元主義の見地であることを見ている。しかし、ダグラスはこの文化の再帰的構成の多元性をあくまで制度によって保障しようとする。最終的には、ダグラスは存在論としてのヒエラルキー文化のバイアスに囚われているのである。

この点でダグラスが保守反動として批判されるのは仕方がない。異なる文化的バイアスからの批判は必然であるからだ。問題は、ダグラスの主張が時代に適合的であるのかにある(この時代に適合的であるのかという点が、存在論のレベルで客観性を決めるものである)。

ダグラスが文化の再帰性の根源を非社会的構造に求めたこととの整合性を考えれば、今日それを保障するものとして、非社会的構造としての情報コミュニケーション構造のグローバル・ネットワークとネットワークとが節合された網状組織の可能性が考えられる。終章ではこのことをラッシュの「リスク文化」を援用することで考えている。

ダグラスは判断の非確定的再帰性をあくまで自身の文化理論に基づく制度による差異化によって保持しようとするが、ラッシュの論じるところでは、今日の崇高美としてのリスクは「身体を傷つける」ためにそうした制度を維持することは不可能である。ラッシュは代替案として、個々の人びとが主体的、主観的にソシエーションという非制度的セクト文化に飛び込むことによる、再帰的=審美的判断に基づくソシエーションによるライフ・ポリティクスを提示している。時代要請としてガバナンスは徹底的に文化志向なのである。