博士学位論文 序論
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序論 実証的社会科学の脱近代的再定式化に向けて
   ―〈場所〉の創発社会学の基本前提―

1. 緒 論―近代的構制の融解

1.1 遠近法としての近代の崩壊

過程(プロセス)としてのグローバル化1)が固有の動力学(ダイナミクス)を有し、有機物と無機物と仮想物とがグローバル化の「粒子」としてネットワークとスケイプをせわしく動き回り異種混淆し合う。そのなかで、視覚の専制はその地盤を揺らがせ認識論の高みは大地に没し、絶対的かつ超越的な「立法者」(Bauman 1987=1995)は姿を消した。あるいは、ブルーノ・ラトゥール流に言えば、近代的な主体/客体図式を支えた「構制」(constitution)が崩壊しつつあるのだ(Latour 1993)2)

そして、準主体と準客体からなる脱境界世界(Serres 1987=1997)のなかで数知れぬ機械状の眼球による情報の追跡が新たに始まり、監視と記録による新たな情報秩序によるグローバルな再編が進んでいる。新たなグローバル秩序を形成しているのは、もはや生身の人間などではなく、「解釈者」としての機械状複合体なのである。我々の「生活」は、この「解釈者」としての機械状複合体無しには成り立ち得ないという厳然たる事実を、まずは認めなければならない。

さて、こうした状況を認識した上で、今日、地域社会や「場所」を語る/論じるとは、いかなる形式をとり、そしていかなる社会的意味(social implication)を持ちうると言えるのだろうか。いわゆる新自由主義を教義とするアメリカナイゼーションとしてのグローバル化に限ってみれば、その対抗言説として「場所」を理念的に語ることは、実践的、政策論的にみればなお大きな言説的意味があるだろう(ちなみに、本論の結論からすれば、この種の「反グローバリズム」は逆説的にも場所性無きグローバリズムの徹底によってこそ成し遂げられるものである)。ただし、そこに何かしらの規範的な意味合いが入り込んでしまうと、具合が悪くなる。というのも、そこからは必然的に超越論を展開する立法者を演じることになってしまい、如上の「プロセスとしてのグローバル化」のリアリティを前にその立論は失効するしかないからだ。これは本論にとって重要な論点でもあるので、次にこの点について簡単に触れておくことにしたい。

1.2 超越的「場所」論の失効

さて、いわゆるグローバル化に対する対抗言説において「場所」や地域が語られる際、そうした言説を構成するグローバル/ローカルの二分論の背景には、おおよそ二つの学問的潮流があると考えることができる。 一つは、フランクフルト学派流の二元論であり、つまりは、システム、商品化、道具的合理性からなる経験的領域と、生活世界、否定性、コミュニケーション的合理性からなる超越的領域が措定される。他方はフランス・ポスト構造主義の二元論であり、この場合は、同一性、現前、メタ・ナラティブが経験的領域を成し、超越的領域には他者、差延が位置づけられる。そして、いずれの立場も前者にグローバルなるものが置かれ、後者にはローカルなるものが置かれる。

しかし、本論を通じて確認されるように、グローバルな情報文化(Lash 2002=2006: 35-58)が、経験/超越の二元論を破壊し、超越的領域としての「場所」ないし地域が存立する可能性を消し去っている3)。かつてのプレ・モダンにおいてはハイデガー流の「住まうこと」によって大地に根ざすことで、そして近代においては「場所」のスケール的/制度的表象である近隣組織(日本で言えば町内会)がネーション・ビルディングの末端として機能することで超越性を確保してきた。ところが、ウィトゲンシュタインのいう「生活形式」が日常的な社会生活からグローバルなネットワークへと離床されるにしたがって象徴界が瓦解し、ラトゥールのいう近代的社会構制の有する境界の自明性、ひいては人間(社会)と非人間(自然)の境界の自明性が問われるようになり、同一なるもの/他なるものの差異もが消し去されることになっているのだ(ここに生まれるのがアクター・ネットワークからなる表象内在性の次元である)。

こうして社会的身体と人間身体が開放された集合体へと変貌し、その器官が外部化されると、超越論的自我は平面化し、存在論的な構造にはもはや意味が成立しなくなる。深層の意味が消滅し、残るのは経験主義的な意味のみとなる。ただし、それは新たな日常性と偶有性の現出の契機でもある。

この結果、反省性/再帰性が変態する。反省的/再帰的な知は存在論的な閉鎖空間に向かうことなく、活動、表現、出来事といった創発事象と結合される。知と実践の間に距離がなくなるのだ。こうして、主体の内面性は平面化する。「意味」はもはや主体自身のために形成されるものではなくなり、他者に向けて形成されることになる。つまり、それはコミュニケーションであり、日常活動の「説明」である。ここにおいて、〈地域〉ないし〈場所〉は説明のイディオムとして提示されるインデックスとして現実界に創発する(以上の論点については、本論第I章、補論を参照)。

1.3 創発する〈場所〉

しかしここで受容による意味作用に基づく社交の美学がパフォーマティブに生まれることになる。なぜならば、審美的経験は想像的自己閉鎖的主体の内部の表出ではなく、日常生活における経験やインプリシットな知と適合しているからである。そしてそれは、均質的なグローバル経済文化の有する「構造」に収奪され尽くすことはない。なぜなら、常にローカルな伝統、記憶、実践によって媒介されているからだ(Gadamer 1960=1986)4)

ガダマー流に言えば、こうした「表現」(Darstellung, presentation)は、制度組織による「表象」(Varstellung, representation)の意図せざる結果でもある。すなわち、制度組織による合理的選択の意図せざる結果が非制度組織による表現なのである。この動力学について、本論では、理論的検討(第2章)を踏まえた上で、日本の町内会を舞台に経験的に析出するとともに(第3〜5章)、バリ、マカオといったアジアの地域社会にも目を向け、グローバル化の横軸としての「アジア」を再審する(第6〜8章)。

客体を監視すればするほど客体は私たちの把握から逃れ出て行き、リスクを最小化しようと計算すればするほど不確実性は増大する。私たちがギデンズ流に自らの生の叙述を秩序化し、首尾一貫した伝記に仕上げるべく再帰的に努力すればするほど、私たちのコントロールの外に出て行く部分が増大する。スコット・ラッシュ(Lash 2000)にしたがえば、この偶有性という契機、すなわち、客体と自我が主体の認知カテゴリーの枠外に逃れるという契機こそ、審美性による判断、解釈過程(本論の用語では「創発過程」)が作動するのである(この論理については、本論補論で詳細に検討する)。

ここに制度的リスク社会を超えるコミュニティ・ガバナンスのアクターとしてのローカルな非制度組織の根源的な意義がある。近代の想像の共同体がコンヴィヴィアルな共同体の対話主義と断絶してしまっているのは、想像の共同体に刻みつけられているのが抽象的時間、抽象的空間であり、また社交が抽象的な「社会」に奪胎されているからであるのに対して、コミュニティ・ガバナンスはヴァナキュラーな価値の創発次元を復権させるのである。そして、新たな種類の真理は、マンハイム的な異郷人としての知識人によって上から、あるいは外から見いだされるものではない。想像的、シンボル的縫合を剥奪され現実界に曝された(社会的)身体は、脱埋め込みされた客体ではないのだ。

とするならば、如上の「プロセスとしてのグローバル化」が進むなかで近代的構制を離れたコンヴィヴィアルな〈場所〉を、いかに地域社会学という社会的=科学的営為はその対象として分析できるのであろうか。〈場所〉はなお「実在」するといえるのか。そして、〈場所〉を還元不可能な認知物(エンティティ)として扱うことはできるのか。つまりは地域社会学はいまなお社会科学として成立しうるのか。まずはその条件を討究することから始めなければならない。

この作業は本論第I部に割り当てられている。第I部を通じて提起されるのは、プロセス・オントロジーに立脚する(社会科学としての)地域社会学はなによりも〈場所〉の創発社会学でなければならないということである。私たちは〈場所〉という言葉をある種の集合性なり実体性を前提として用いているが、問題は、この〈場所〉という形象が、なぜ、いかにして、存立しているのかを、その生成の論理において科学的に把握することにあるのだ。そこで、この序論では、その前段となる社会科学そのものについての考察を手短かに行なっておきたい。

  1. ジョン・アーリは従来のグローバル化論が、(プロセスに通じる「ネットワーク」ではなく)「領域」のメタファーを前提にしているがために、グローバル化の分析がひどく狭隘なものになっていることを指摘している(Urry 2000=2006: 57-85参照)。すなわち、国民社会の領域が自律的な経済文化の領域に浸食されるという図式であり、こうした図式ではグローバル化の「社会性」を十分に論じることはできないというわけだ。
  2. ただし、このように述べたからといって、生活世界やハバーマスの議論そのものを否定しているわけではない。批判すべきは、その超越的定式化を支える二項対立図式であり、二項対立図式を越えた地平に、生活世界を再定義することが求められているのである。筆者の「〈場所〉創発の社会学」における生活世界の位置については、本論第II章で論じる。
  3. ただし、このように述べたからといって、記憶や歴史の有する時間を本質視して至高の座に据えることにはならない。重要なことは時間の複数性を認めることだ。ジョン・アーリの時間概念を援用すれば、グローバルな瞬間的時間とローカルな氷河の時間は、グローバルな散逸構造系において相補的な関係にあるということができる(本論第I章参照)。
  4. ラトゥールが、その著『近代的であった試しなどない(Nous n'avons jamais ?t? modernes)』(1991年)において、独自の「構制」概念を用いて以来、従来の社会学的クロノロジー、すなわち「野生の思考」→「近代の思考」という発展図式を明瞭に否定することに成功している。構制とは端的に言えば世界認識の構造のことであって、その要素は、主体(社会、共同体、文化、国家、文化)、客体(事物、技術、事実、自然)、言語(言説、媒介、翻訳、代理、表象)、存在(神、英雄、トーテム化された先祖、実存の問題)からなり、各時代の構制において以上の4つの領分が取り決められエントレンチ(守護)される。近代的構制においては以下のようにエントレンチされる。すなわち、主体は、「内在的」で、絶えず「人工的」に市民によって構築されるものとされ、客体は、時間、空間的に「超越的」ないし普遍的であり、非構築的で発見の対象であり客観的に真であるとされ(自然科学、社会科学における事実と技術はこの意味で超越的)、言語において、主体と客体の間の翻訳は「禁止」され(「純化の仕事」)、存在においては、聖と俗が分離され、「取り消し線を引かれた神」がこの二元論の調停者の役を務める。そして、これらの規定が何ら本質的なものでないことが、たとえば、科学社会学による客体の超越的性格に対する挑戦(Latour 1987=1999)、広くは構築主義によって自然の内在性が指摘され、社会の超越性については、人間の共同体が「多くの非‐人間〔事物、技術、客体、自然〕の登録(enr?lement)を通じて」(Latour 1993: 138)時間的に持続されうることが指摘されるなかで明らかとなっている。純粋な社会構造それ自体が存在するのではない。